金属熱処理加工の東研サーモテック


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[熱処理(社団法人 日本熱処理技術協会発行)42巻2号]

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随想「タイ国の熱処理事情」

川 嵜  修

Heat Treatment in Tailand

Osamu KAWASAKI
 

 1994年夏、バブルが弾けたとはいえ、まだ日本は右肩上がりの経済成長の余韻が漂う時代であったが、円高がじわじわと進み電機業界やその下請け産業が海外進出を加速し始めた頃であった。日本の製造業の空洞化を漠然と感じていた時、自動車部品産業の主力お得意先よりタイの進出を打診され、私は企業化調査の為にタイへの機中の人となった。

 タイへは観光旅行で行ったことはあったが、今回はその時のようなうきうきとした気持ちがまるで沸いてこない。果たして、我社に海外での企業を成功させる実力はあるのか。人材は?資金調達は?得意先開拓は?熱処理の技術移転をタイ人にできるか?期待より、つのる不安が大きく、機内で出されるアルコールにも全く酔えずにいた。

 最終的に、何が進出の決断になったかは一言で表せない。ただ、誰かの成功後、二番煎じでの進出はかえって苦労するだろう・・・という思いは強かった。
 翌1995年の5月から工場建設に取り掛かり、10月に完成の運びとなった。さあ、いよいよ営業開拓。同時に従業員の教育、設備の安定稼動、品質の確保と、一気呵成にやらねばならない。本格操業までの助走期間に約1年を費やしたが、得意先からの試作品をやり、それを日本へ送り評価を得た後、やっとタイでの現地調達がOKとなる。しかし、売上が順調に伸び始めたその時、予測すらしなかったタイ・バーツ暴落がわれわれを襲った。

 タイ経済が再び回復軌道に乗るには3〜5年とも予測され、誰もが暗澹たる気持ちになっていた。結局、1997年の秋から約2年間停滞し、日本からの進出企業の多くがリストラを断行し縮小策をとる中で、熱処理業の宿命ともいえる固定費圧縮の難しさに頭を悩ませた。又、現地の責任者が日本側の対応策を相談し、タイに戻る機内で急性胃潰瘍となり、タイ空港から救急病院に即入院・・・など、とても心労の重なる時期であった。幸いにも、1999年春からタイ経済も少しずつ回復基調に乗り、安堵したものである。

 その後は、タイが東南アジアの“自動車生産基地”という位置付けとなり、日系のみならず、欧米メーカーもタイに進出を決め、仕事が順調に増えているのは本当に有難いことである。

 熱処理加工のように、技能の伝承を必要とする技術移転は大変苦労する。
 まず、専門用語をタイ人に理解してもらわないといけない。また、タイは元々農業国で、基本的な工業の知識が充分に無く、各種ガスの取り扱い・安全衛生に対する教育・品質管理や熱処理の基礎知識教育を、また日本人スタッフへのタイ語教育等々、やるべきことが山のようにある。

 また、雨季などは落雷でしばしば停電になる。その上調達資材の品質も不安定で、操業上の苦労は開渠に暇がない。幸い、辛い時期に従業員の解雇をやらずにがんばったお陰か、タイ人は熱処理技術の重要性をよく理解し、熱心に技能を修得してくれた。その上、日本人とのチームワークも大変良い。お陰で去年、ISO並びにQS9000を取得できた。これにより得意先からも高い評価を受けられるようになり、一安心である。

 その後、タイに続いてマレーシアへ進出。こちらは家電・弱電・半導体産業を主力としているが、日系メーカーの生産移転もあり、国内では取引の無かった得意先を開拓し、設備の増強を図りつつ安定した操業が出来るまでに至っている。
 海外進出の経験を通して、現地に出向した社員が目に見えて成長するのを実感し、大変乱暴な言い方ではあるが、これが中小企業において一番の人材育成法だと感じた。

平成 14年 4月

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